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CLOSE戦後復興と高度経済成長を支える
社会のお役に立ちたい
HISTORY OF HAGIWARA 1948-1958
敗戦の混乱と復興の中、持ち込まれた電気製品は何でも修理した。
技術で、社会のお役に立ちたい。
戦後の混乱の中、ラジオ・扇風機・電気蓄音機など持ち込まれる電気製品を何でも修理した創業者・萩原忠臣。
技術一本での仕事が評判を呼び、やがて学校など公共施設の放送設備取り付けや保守など大きなものに広がった。
終戦から、わずか3年。まだまだ復興途中の名古屋の地で「萩原電気工業社」を設立。
「従業員を大切に、新しいものに挑戦する」技術とヒューマニズムとチャレンジ精神での創業だった。
世界と戦える先端性を追求
新しいことは、まずやってみる
HISTORY OF HAGIWARA 1959-1972
リスクを恐れずに、未知の分野に挑戦。
先端エレクトロニクス化の波を攻める。
1950年代後半から、各産業でトランジスタなど電子部品の需要が高まっていた。
「おもしろそうだ、とにかく、やってみなければ始まらない」。
失敗を恐れず、攻めの姿勢で電子部品の販売を手掛ける商社事業に参入。
1960年代には、トランジスタを使った装置の開発・製造も開始。常に新しいことに挑戦し、事業の拡充をはかっていった。
技術革新で逆境を乗り越える
今日を見るより、明日を読む
HISTORY OF HAGIWARA 1973-1988
経済失速の逆風の中、
高度化する技術をいち早く取り入れて、飛躍へつなげる。
オイルショックなどで経済不況の中、排ガス規制や省力化で自動車のエレクトロニクス化が加速。
電子部品の需要は高まり、トランジスタからICへと技術革新が進んだ。
また、工場部門の設備投資が控えられる中、コンピュータ技術の導入にいち早く挑戦し、次の飛躍の足がかりとなった。
組織力強化とグローバル進出
新しい時代へ
HISTORY OF HAGIWARA 1989-2017
平成元年を新しい出発に、経営体制を強化し、前進を続ける。
昭和から平成への変わり目に、新しい時代が始動。
技術力・営業力を強化し、販売品や製品に高付加価値をつけるコンサルティングセールスを提供する会社に成長するとともに、
海外への進出を果たし、グローバルなモノづくりを支える基礎を築いていった。
ワンストップソリューション提供企業として
さらなる創造と挑戦
FUTURE OF HAGIWARA 2018
2018年4月1日
「萩原電気ホールディングス株式会社」誕生。
エレクトロニクスの進歩は早い。クルマやデジタル機器は進化を続け、生活は豊かになってきた。
しかし、まだまだ技術のイノベーションは続いている。
発想を変えた新しい領域を追求し、もっともっと新しい動きをスピーディーに。
新たな体制をスタートさせるとともに、萩原電気グループは一丸となり、
「創造と挑戦」を理念にワンストップソリューション・グローバルサプライヤーとして発展を続けていく。
衣食住・交通・通信など、エレクトロニクスが活きるさまざまな領域で、さらに豊かな社会づくりに貢献を続けたい。
HISTORY OF HAGIWARA 1948-1958
テレビ局が次々に開局し、テレビ時代の幕開けを迎えた年。名古屋には、高さ180mの名古屋テレビ塔が完成した。完成1か月前の5月、NHKのラジオ用送信アンテナの取り付け工事を実施。
作業現場は地上90mよりはるか上の、30cm幅の鋼鉄の梁の上。強風が吹きつける中、創業者の忠臣は社員たちに「下を見るな、空を見るな、まっすぐ前を見ろ」と叫んだが、高所未経験のため皆はおっかなびっくりのへっぴり腰。
そんな中、建設会社出身の社員だけが「ありゃよ!」の掛け声とともに、梁の上を走り回り周囲を驚かせた。
HISTORY OF HAGIWARA 1959-1972
電子部品の全国販売を展開する日本電気から「販売特約店を引き受けて欲しい」との依頼が舞い込んだ。経験のない電子部品販売に、消極論や反対論が持ち上がる社内で創業者の忠臣が発したひと言。「おもしろそうだ。とにかくやってみなければ何も始まらない」に社員たちも奮起。リスクを恐れず、いざ新規事業への挑戦が始まった。
販売した電子部品は電子管(真空管)、半導体(トランジスタ・ダイオードなど)、機構部品(リレー、スイッチ)、部品(コンデンサ)など。いずれも産業用、通信用に重点を置いた製品だった。
HISTORY OF HAGIWARA 1959-1972
国内の自動車産業を牽引するトヨタ自動車工業。エレクトロニクス化を推進する同社と取引するため、担当社員が名古屋駅前の購買部に連日足を運んだ。最初は相手にもされなかったが、3か月経ったある日―。偶然にも超短波無線機用のアンテナ素子の受注に成功。それをきっかけに、トヨタ自動車工業との取引を開始。
一方、トランジスタなど半導体は、愛知県に本拠を置く日本電装を最大の得意先に成長。以降、急激な変化を遂げた自動車業界に大きく貢献した。
HISTORY OF HAGIWARA 1959-1972
川崎航空機工業から受注したシンクログラフ(6チャンネルペン書き記録計)の開発を皮切りに、計測・制御分野で電子機器の製造に本格的に挑戦。同年にはチューインガム包装用の位置決め装置を開発するなど、メーカー事業に参入を果たした。
それらの技術を支えたのは、日本電気の技術研修に参加した社員たち。その後もトヨタ自動車工業の関連企業から、さまざまな電子機器装置開発を受注。自動車産業の生産ライン自動化を支えた。
HISTORY OF HAGIWARA 1973-1988
コンピュータの技術革新が進み、大型コンピュータはミニコンへ、ミニコンからマイコンへと小型化が進み、さらに高いパフォーマンスが求められるように。そんな中、日本電気とミニコンを使った梨選果装置の共同開発がスタート。毎晩のようにミニコンの勉強会を開き、光電式を利用した梨のサイズ計測法を考案。約1か月間、現場に泊まり込んで設置した萩原電気製のシステムは、鳥取県で約10年間活躍した。
同年、梨で磨いたミニコンの技術を糧に、マイコンを使ったスパイロメーター(肺機能計測装置)を開発。全社を挙げて取り組んだオリジナルのマイコン、HPU12を搭載したスパイロメーターは、北海道旭川市の病院に納められた。
HISTORY OF HAGIWARA 1989-2017
萩原電気の40周年を記念して、三部構成のフォーラム「ゆとりとうるおいの名古屋」を開催。第一部は、当時、名古屋市美術館を設計したばかりの建築家、黒川紀章氏による講演。第二部は、豪華パネリストを招いたシンポジウム「翔け! 名古屋」を実施した。
フィナーレを飾ったのは、第三部の名古屋フィルハーモニー交響楽団と萩原電気合唱団によるコンサート。本番の4か月前に結成したばかりの合唱団だったが、全身全霊を込めて歌い上げた後には、割れんばかりの拍手が会場に鳴り響いた。
翌日の新聞各紙には「講演や熱い提言 多彩なフォーラム」などの見出しとともに紹介された。
HISTORY OF HAGIWARA 1989-2017
1991年発表の中期経営計画に掲げられた株式公開に向け、社員たちが大量の資料作成や手続きに奔走。専門家に依頼することもできたが、次のステップへとつなげるため、あえて素人の社員によるプロジェクトチームを編成した。
無事に株式が公開された後、さらに経営の安定性と将来性を確かなものにするため、海外進出や三好事業所の新設などの取り組みをスタート。同時に「社員を大切にする企業」を目指し、人材の育成や働きやすい職場環境の実現などを促進した。